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武田信繁

武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏18代・武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。

官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・信豊も典厩を名乗ったため、後世「古典厩」と記される。武田二十四将にも数えられる武田の副大将として、信玄の腹心中の腹心として、またもっとも近い存在として信玄を支え続けた。その人望はすこぶる高かったといわれるものの、37年という短い生涯のために事跡の乏しい面もある。
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生涯
大永5年(1525年)、武田信虎の子として生まれる。幼名は次郎。幼少より文武に秀でていたため、父・信虎から溺愛された。その溺愛ぶりは嫡男である晴信(後の信玄)を廃して信繁に家督を譲ろうと画策するほどであったが、父の思惑とは別に兄弟仲は良く、天文10年(1541年)に晴信が信虎を駿河国に追放すると、これを補佐して家中をよく取りまとめた。

以後は晴信の片腕として、伊那侵攻や上田原の戦い、塩尻峠の戦いなどの信濃攻略戦の多くに従軍して、武田氏の勢力拡大に尽力した。天文20年(1551年)、武田氏庶流の吉田氏の名跡を継承する。

永禄4年(1561年)9月10日、大激戦となった第4次川中島の戦いで討死する。享年37。戦死の状況につき、『上杉謙信申状』、『北越軍談』、『武辺咄聞書』等の記録によると、かつての宿敵・村上義清の手によって討ち取られたと記されているが定かではない。死の直前、討死を覚悟し春日源之丞に形見を託したともいう。

評価
敵味方を問わず同時代の多くの人物から賞賛された武将であり、信玄は信繁の死体を抱くと号泣したと伝えられ、上杉謙信らからもその死は惜しまれたという。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、信玄の長男・義信が謀反を起こすことはなかったといわれるほどである。山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという(『甲陽軍鑑』)。
息子を信濃の名族望月氏の養子にするなど、武田家による信濃支配の要として信濃国人衆との結びつきが強く、当時武藤家を継いでいた真田昌幸は、次男に信繁(幸村)と名付けている。そのため長らく発生していなかった信濃武士の反乱が、信繁死後に頻発するようになる。
後に信玄は、越中を上杉氏に抑えられたため攻略目標を飛騨から駿河に変えたが、信繁が死んだためにこの方針転換を具体化する人物がいなくなり、武田家の勢力拡張に重大な支障をきたしたと考えられている。
豊臣秀吉の天下統一を支えた実弟秀長は、兄に仕えるにあたって信繁を手本にしたと言われる。
江戸時代においても「まことの武将」との評価があるほど人気があり、嫡子武田信豊に残した99ヶ条にわたる『武田信繁家訓』(甲州法度之次第の原型)は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれるなど、後世の武士へ強い影響を残した人物でもある。江戸時代の儒学者室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛している

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2009年01月27日 07:45に投稿されたエントリーのページです。

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